朝ドラ「あんぱん」がとても人気のようです。
「あんぱん」はおなじみ「アンパンマン」の作者やなせたかしさんが主人公のモデルになっていますが、ドラマ中に登場した「のらくろ」をご存知の方は今ではもう少ないかもしれません。
一匹の黒犬を兵士に見立てたこの「のらくろ」は、戦前、戦中、そして戦後と長い人気をほこり、一時はブームにもなった国民的人気マンガでした。
そこで日本マンガの原点ともいえるこの「のらくろ」の作者はどんな人だったのか、あらためて「のらくろ」とともに紹介したいと思いますのでぜひ最後までご覧ください。
「のらくろ」の作者は田河水泡

田河水泡氏は本名を高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)といい、1899年(明治32年)に東京市の本所で生まれました。
しかし出生後すぐに母親が死去してしまい、その後父親が再婚したのを契機に子供のいなかった伯父夫婦の元で育ちました。そして伯父が中国の山水画を愛好していた影響から仲太郎もやがて絵を描くようになります。
しかしその伯父も、仲太郎が小学5年生の時に亡くなってしまい生活は困窮。薬屋の店員やメリヤス工場の少年工員として働くという「家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期」を過ごしたということです。
その後、徴兵され朝鮮や満州で軍隊生活を送り、1922年(大正11年)に除隊し帰国。
帰国後は画家を志し、日本美術学校(現・日本美術専門学校)に入学し前衛芸術集団に参加したりしますが1926年(大正15年)に退団します。
落語作家として人気に

田河水泡こと高見澤 仲太郎は日本美術学校卒業後、展示装飾の手伝いや広告デザインの仕事でどうにか食いつなぐ絵描き時代を過ごしますが、文筆業にも関心があったため作家を目指します。
当初は小説を売り込もうと考えていましたが、ライバルが多すぎると考え、当時の雑誌に必ずといっていいほど掲載されていた落語・講談に目を付け、新作落語作家を目指すようになります。
書き上げた新作落語を当時の人気雑誌「面白倶楽部」に持ち込んで掲載され、講談社の別の雑誌からも依頼が来るようになり、落語作家として売れっ子になります。

「猫と金魚」などの名作もあります。
挿絵からマンガ家に


落語作家として有名になりつつあった高見澤 仲太郎(田河水泡)でしたが、美術学校出身だということで今度は落語の挿絵を描いてほしいという依頼を受けるようになり、やがて連載マンガの執筆を始めるようになりました。



初連載の「人造人間」は日本最初のロボット登場マンガとも言われています。
そうした連載マンガ執筆の中で生まれたのが、「のらくろ」でした。
国民的人気マンガ「のらくろ」とは


1929年に講談社の少年雑誌「少年倶楽部」に連載開始の「のらくろ」は、田河水泡氏が以前に屋外で見かけた黒い犬が気になったことで思いついたキャラクターで、モデルはアメリカのマンガ「フィリックス・ザ・キャット」のフィリックスでした。
「のらくろ」は本名を”野良犬黒吉”といい、猛犬軍の『猛犬連隊』に入隊した野良犬の「のらくろ」が当初は、やせっぽちで、失敗の連続でしたが段々と活躍し始め、山猿軍、チンパンジー軍などを相手とした戦闘で勝利に貢献する大活躍を見せ、『猛犬連隊』に不可欠の存在となり、最終的に二等兵から士官学校を経て将校となり大尉にまで進級して除隊。
その後予備役となり、大陸におもむき資源発掘の探検隊を組織、金脈を探し当てるいわば立身出世物語です。
何度かアニメ化も


「のらくろ」は連載当時から人気作品だっただけあって、すでに1933年にはアニメ「のらくろ二等兵」が、翌1934年にも「のらくろ伍長」が制作されています。(モノクロ作品)
また1970年には、当時のエイケン制作でカラーによるテレビアニメがフジテレビ系列にて放映されました。



声優はドラえもんの大山のぶ代さんでした。
当時は子供たちよりも大人層の方がファンが多く、フジテレビには多くの反響が寄せられたようです。
まとめ
今回、昭和時代に国民的人気マンガだった「のらくろ」がふとしたきっかけで注目されたようですが、さすがに令和の時代となっては、原作者の田河水泡氏を知る人は少なくなっているようです。
しかし田河水泡氏は、「サザエさん」の長谷川町子さんの師匠筋にあたるほか、あの手塚治虫氏は子供時代に「のらくろ」を真似することでその画力を高めたと言われている日本マンガの原点ともいえる存在でした。
久しぶりに「のらくろ」を思い出すとともに、かつてのテレビアニメをまた見てみたくなりました。
最後までご覧いただきありがとうございました。